釈吉瑞こぼれ話

Śākyamaṅgalaḥ

釈吉瑞

釈吉瑞

真照寺衆徒 釈吉瑞のエッセイ集です。

其の一

職場のインド人に人生を聞いてみた

今の会社は、社員数35万人のうちインド人が27万人いるアメリカのAI関連企業だ。インドにいるのは、22万人ほど。日本国民の平均年齢は48歳、インド人平均年齢は28歳だそうだ。従い、インド人の多いウチの社員平均年齢も20代で、何兆円ものビジネスを動かしている。

インド人といえば、ガンジス川で沐浴する姿を連想しがちだが、グローバル企業のビジネスの現場では、我々の共通言語は英語以上に数字と技術なのだ。小さいころから「人に迷惑をかけてはだめだよ」と聞かされることの多い我々は、「迷惑をかけて生きてゆくのだから、あなたも人を許しなさい」と育てられる彼らとは、なんとなく違いを肌で感じている……
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今の会社は、社員数35万人のうちインド人が27万人いるアメリカのAI関連企業だ。インドにいるのは、22万人ほど。日本国民の平均年齢は48歳、インド人平均年齢は28歳だそうだ。従い、インド人の多いウチの社員平均年齢も20代で、何兆円ものビジネスを動かしている。これが、今どきのAIネイティブの若者が生み出すビジネスのダイナミズムなのだろう。社内では、いろいろな仕組みが、実社会のたぶん5年以上先の技術で動いている。

インド人といえば、ガンジス川で沐浴する姿を連想しがちだが、グローバル企業のビジネスの現場では、我々の共通言語は英語以上に数字と技術なのだ。会社のインド人幹部たちは、若い時に日系企業で仕事をした人が多い。ほんの40年ほど昔、駆け出しのころ叱られつつ頑張ったのだろう、そんな彼らは欧米にわたり、ITのオフショアモデルを立ち上げ、今や彼らの年収は億の額に至る。

日本の昭和成功モデルとは、また違ったモデルで新時代の流れにのったインドのトップ1%の人材。若さも、技術力も、国際性も、新しい時代に必要な能力を発揮して活躍する同僚は、実のところ日本人にはあまりない、鷹揚さがあるように思う。その背景になにがあるのか知りたかったのだ。

自分の知るインドの人々をしてインド人すべてがそうだという短絡な話ではない。ただ、小さいころから「人に迷惑をかけてはだめだよ」と聞かされることの多い我々は、「迷惑をかけて生きてゆくのだから、あなたも人を許しなさい」と育てられる彼らとは、なんとなく違いを肌で感じている。それはダイナミズムにも表れるし、スピード感もちがう。どちらが正しいとかどちらが優れているということではない、ただ根本の違いは文化や振る舞い、教育、街並みや国づくりにいたるまで影響はあるように思える。

同僚は、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教(スンニ、シーア)、シク教など様々な信仰があるが、個人が理屈で宗教をしていないという側面がある。むしろアイデンティティ、自分の属性のようなものが宗教なのだなと思う。

そんな同僚に伝統的インド思想について聞いてみた。とはいえ、自分が伝統的日本思想とはどんなものなのと聞かれても回答に困る。あたりまえだが彼らも同じ反応だった。あのね、伝統的インド思想って言われても、同質的で統一的なものではないのだよ、と。そもそも現代のインド国の範囲をこの文脈でのインドというならそこから違う。5千年以上の昔にさかのぼり、シュメール、インダス文明、そしてペルシアから流入したアーリア人を先祖に持つ多くの民族、南方のドラヴィダ人やタミルやテルグの民族など、言語、文化、人種など今なおその多様性が色濃く残る。

インドにおいては、哲学・心理・宗教に明確な境界線がない。それらをひっくるめてインド思想というなら、それは主として人間の内面性、たとえば何に価値を認め、人生の目的は何で、自分が従うべきは何か、などそれらには日本人のそれとは違う側面がある。

例えば、インド思想を語るうえで「瞑想」は切っても切れない。理屈ではなく、ヨーガを通じて、そして瞑想による内面生活が、思索や宗教の教学以上に重きを置く。瞑想を通じて自分の中の真理に触れる。そして自己の内面に真理をもとめることは、そのまま宇宙の意識というところに行きつくような関連性もまたインド的な思想の特徴といえる。

ここで、同僚からはインド思想は一言では言えないし、専門的な総括でもないが、という前置きのうえで、少し基本的なところを教えてもらった。まずは今のヒンドゥー教の前身であるバラモン教の聖典「ヴェーダ」を知らねば始まらない、という。

「アタルヴァ・ヴェーダ」では、すべての生命が宇宙に浸透する意識(スートラ)で結ばれている。このスートラはブラフマン(宇宙意識)でもあるとする。「リグ・ヴェーダ」では、過去・現在・未来に宇宙に存在するものすべてが宇宙意識であり、それは不滅の存在だという。

サーンキャ学派では、プルシャ(宇宙意識)とプラクリティ(宇宙エネルギー)の相互作用による世界の創造や、自我(アハンカーラ)の発生によって個々の意識が生じると説く。この自我は欲望を持ち、それが行為や感覚、身体を動かす。結果、自身の望みが叶えば満足し、叶わなければ苦しみを感じる。釈迦は、この欲望が続く限り、苦しみは個人にも世界にも存在するとした。

このようにインド思想を本質的に言い表すとすれば、こんな感じではないか、という。
・ 宇宙は意識とエネルギーの現れである。
・ 個我も宇宙意識の一部だが、欲望で真の姿を見失う。
・ 欲望が苦しみを生み出す。
・ 苦しみを感じることで、その原因を探し、解放を求めるようになる。
解放への道は、「自己の本質」に立ち返ること。つまり「サット・チット・アーナンダ(sat-cit-ānanda)」が先ず何より大切なのだ、という。

インド思想では、人は平等に生まれないとされている。古代インドにおいて様々な領域において優れた知識が生み出されたのは、お金や権力にとらわれず、知識の追求のためにのみ自分をささげた人々がいたからである。

古代インドには「人生の四段階(アーシュラマ)」という考え方があった。第一段階は学生期で、師から知識や技術、人間性を学ぶ期間。第二段階は結婚し家庭を持つ家住期で、社会の中心的役割を担う。第三段階は林住期で、子どもが独立した後、学びや瞑想に専念し、第四段階は遊行期で、修行者として世俗から離れ、得た知恵を広める。

最後に、人生の目的である。古代インドでは、人生の目的(Puruṣārtha)は4つあると考えられていた。ダルマ(法則)、アルタ(繁栄)、カーマ(欲望)、モクシャ(解脱)。人間は思考によって生き方が決まるといっていい。物質的な豊かさの追求そのものは否定されない。ただし、必ずダルマに従って生きるべきという。

4つめにある人生の目的「モクシャ(解脱)」は、絶対的な平安と幸福が得られ、宇宙意識との一体感を見出すことで、すべての束縛を超え、争いや対立がなくなり、完全な自由を得ることができる。肉体的欲求や社会条件、自分自身の心や自我によって束縛されている状態から離れることを解脱という。

自分の本質を知る、これが古代から伝統的インド文化に一貫する思想なのだろう。現代人は、退職後の生活を消化試合的に無意味な見方をしがちだが、古代インドでは家族の責任を終えた後こそ本当の人生が始まるとされた。責任から自由になったときこそ、自らの人生や成し遂げたことを振り返り、自分の内面の旅を始めて、自然の生み出した妙味を発見してゆくことが大切なのだ、という。

日本の伝統的な思想もすばらしいが、日本だけが素晴らしいのではないことがインド人の話から教わった気がする。

其の二

ヘルゴラント

我々現代人が、便利に使っているが実はその本質をよく理解できていないこと、例えば「時間」「重力」「光」「空間」「温度」「物質」そして「生命」など、それぞれに実体があるように概念把握し、それらの言葉を使い常識にしている。

此等の言葉は、現代の物理学でも再定義が進んできた。そして、それはお互いに関わり合って起きている事象につながっている。釈迦は、それを「縁起」と呼んだ……
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我々現代人が、便利に使っているが実はその本質をよく理解できていないこと、例えば「時間」「重力」「光」「空間」「温度」「物質」そして「生命」など、それぞれに実体があるように概念把握し、それらの言葉を使い常識にしている。

此等の言葉は、現代の物理学でも再定義が進んできた。そして、それはお互いに関わり合って起きている事象につながっている。釈迦は、それを「縁起」と呼んだ。

「縁起」(pratītya-samutpāda)の語源を紐解けば、pratītya(प्रतीत्य):「〜に依存して」「〜を縁として」、samutpāda(समुत्पाद):「ともに生じること、共起」。合わせて「依存して共に生じること」である。つまり、「およそ生起するものは、いかなるものも条件に依存して生起する」という一般原理である。

夜空に見える星々は、彼らの過去の姿である。しかし見えている「色」は単に星の色ではない。相対速度次第でその色も変化する。「重力」によって光が直線に進まない結果、天体の裏に隠れている星も観測できることがある。

20世紀以降の物理学は、確かに古典的な「自性」観念を次々と崩してきた。「時間」と「空間」:絶対的背景としての時空は、相対論によって関係的・力学的な時空(spacetime)に置き換えられた。「物質」:原子論的な「小さな固体」は、場(field)の励起として再記述された。素粒子はもはや「もの」ではなく、相互作用のパターンに近い。

「光」もまた波の特徴と粒子の特徴を併せ持ちながら、波でも粒子でもない。観測の文脈に応じて両様に振る舞う。——奇遇だが、これは龍樹の四句分別の第三句・第四句に構造的に類似である。

近代物理の到達しているこれらすべてに共通するのは、「自存する単独の実体」(自性)が解体され、「関係・場・プロセス・文脈」(縁起)として捉え直されているということである。

『中論』第24章第18偈には、こうある。
「およそ縁起するものを、我らは空性(śūnyatā)と呼ぶ。それは仮設(prajñapti)にして、すなわち中道である。」

とはいえ、科学もまた真理を追求する。理論物理学の権威でCarlo Rovelliというイタリアの学者が著した、『Helgoland』(邦題『世界は「関係」でできている』)は、量子力学の関係論的解釈を論じたものである。ロヴェッリはその著書で、量子力学の解き明かしつつある姿を、空(śūnyatā)・無自性という仏教の関係性世界観と絡め、「物事は他の物事との関係においてのみ性質をもつ」と、明示的に龍樹に重ねている。

『ヘルゴラント』では、世界とは独立した事物の集まりではなく、相互作用の網の目であると論じている。量子論の奇妙さも相対的な相互作用のネットワークとして説明される。ロヴェッリはこの構想を東洋思想、とりわけ龍樹と結びつけ、事物が独立した存在性をもたないという「空」の概念に焦点を当てる。

現代科学が明確にしつつあるのは、「最終的な実体(自性)」ではなく、「関係の網(縁起)」へと向かっている新たな地平のようでもある。

其の三

僧侶だけど宗教が嫌い

昔から、「私は無宗教」と言って憚らなかった。いわゆる宗教というものには、そこまで興味もなく、よくある献金とか勧誘とかある宗教にはむしろ近づきたくない。

大好きな本の一つに、リチャード・ドーキンス博士が著した「神は妄想であるー宗教との決別」がある。これは英語版も翻訳版も読んだ。世の宗教者はこの本を読むべきだとすら思う。宗教に根ざした争いが起こる原因など、彼の指摘した通りだろう……
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昔から、「私は無宗教」と言って憚らなかった。いわゆる宗教というものには、そこまで興味もなく、よくある献金とか勧誘とかある宗教にはむしろ近づきたくない。職場はインド人が多く、彼らの宗教はむしろ自然に思える。嫌いではないし、クリスチャンが教会に行くのも、周りが神社に参拝するのも、素敵ですね、と思う。

大好きな本の一つに、リチャード・ドーキンス博士が著した「神は妄想であるー宗教との決別」がある。これは英語版も翻訳版も読んだ。世の宗教者はこの本を読むべきだとすら思う。宗教に根ざした争いが起こる原因など、彼の指摘した通りだろう。

自分の家系は、代々浄土真宗だった。播州門徒の端くれだったらしい。小さい時から、親に「ナムアミダブ〜言うときな。」と、根拠があるのかないのか言い聞かされてきた。コロナ禍を経て、近所の神社にお参りする習慣がついた。何をお願いすることもないが、柏手を打って、お辞儀をして帰るだけだ。

自分でもよく思い出せないが、京都に行って西と東の本願寺に行ったり、動画で法話を聞くようにもなった。いつの間にか、帰敬式を受けて門徒となり、翌年に得度して真宗大谷派の僧侶になった。気軽になった訳ではないが、そこまで強い思い込みがあった訳でもない。「導かれた」といえば、そうなのかも知れない。

さて、「神は妄想である」というのも、本当だとも嘘だとも思わない。《自分にとっては》そんなことは本質ではないからだ。同様に「仏は妄想である」と誰かが言ったとしても、どうでもいい。妄想したことを信じるな、ということが的外れなのだ。ハッキリしていることは、自分が信じようと、信じまいと、世の中何も変わらない。仏様が褒めてくれる訳でも、褒美をくれる訳でもない。

大谷派僧侶で金沢大学の教授だった出雲路暢良という偉いお坊さんが、「救済の七箇条」として以下のことを話されたと言われる。
・我々は救済を奇跡に求めることはできない
・我々は救済を陶酔に求めることはできない
・我々は救済を心の状態に求めることはできない
・我々は救済を不足物の補充に求めることはできない
・我々は救済を邪魔者の除去に求めることはできない
・我々は救済を精神的欠陥の改善に求めることはできない
・我々は救済を社会改良や革命に求めることはできない

ここにある通り、世の中で得てして持たれる宗教的な救済というイメージとはまるで違う。阿弥陀仏というのが、宇宙のどこかにいて救済を請け負うという発想など微塵もない。奇跡をもたらす、素晴らしい心の状態をもたらすとかいうの、妄想でしょ、という訳だ。

三木清という哲学者が著作「親鸞」のなかでこう記している。「宗教を単に体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。宗教は単なる体験の問題ではなく、真理の問題である。」

真理は自分を超越している。たかだか数十年のある時代を生きるこの自分という存在が何をしていようが、生まれる前からあり、死んだ後もずっと続いてゆく、自分の主観など関係なくあり続ける。精神論だとか、生き方の方法論とか、入り込む余地がない。

ここまでが宗教ということへの答えではない。ここが入り口でしかない。神は妄想である、神も仏もあるものか、が入り口なのだ。理屈としては無宗教の入り口なのだろう。けれど実のところ、《自分にとっては》真宗の入り口だったのだ。

はるか先を歩かれた先達に、曽我量深という高僧がおられた。ある人が師にこう言われた。「おかげさまで、私は幸福に暮らしております。」ところが師の返答はこうだった。「浄土真宗は幸せになる教えではありません。幸せ不要の人間になることです。」

其の四

悟りたいですか?

「それして、悟れるんですか?」と言う人がいた。理解が追いつかなかった。そもそも自分には、悟りたいがためにしていることがないし、悟りをゴール設定にもできない。

「求道心によって仏道を歩む」という。日常は、とかく忙しい。仕事、家族、人付き合い、全て自分をして生きる上での縁がある。縁が生み出す繁忙の中で、求道心だ、仏道だ、という……
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「それして、悟れるんですか?」と言う人がいた。理解が追いつかなかった。そもそも自分には、悟りたいがためにしていることがないし、悟りをゴール設定にもできない。

「求道心によって仏道を歩む」という。歩む、と言っても物理的に歩くのではない。日常は、とかく忙しい。仕事、家族、人付き合い、全て自分をして生きる上での縁がある。縁が生み出す繁忙の中で、求道心だ、仏道だ、という。

俗世を離れて、仏との縁だけをたよりに生きた人もいただろうけれど、自分は生活を続ける。自分の領域に全うする。その上で、仏道にならないなら、それでいい。誰かが、仏道を定義している訳でもない。誰かが、求道心に認定を与える訳でもない。これは、むしろ厳しいことだと思う。

古来、仏教者は「悟り」ということを大切にしてきた。どういうわけか、僧侶でありながら、自分には悟りたいという気持ちがない。そもそも、悟りとされる意識の領域が分からない。

歎異抄の九章には、唯円房が「念仏しても、正直 喜ぶ心が生まれない、すぐにでも浄土に行きたいとも思えない、どうしたものでしょう」と親鸞に問う描写がある。親鸞は、「わたしも同じだ」という。何かあれば、すぐ死ぬことを恐れる。死にたくないと思っていても、「娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。」と人間の現実を示す。そして、このような喜べない我々を「ことにあわれみたまうなり。」と仏の慈悲を説く。

もし自分が、仏になるのだ、悟るのだ、として大変な努力をして仏陀になったなら、「わたしは、大変な苦労をして仏になれたのだ。わたしは、今こうして仏になれたことを誇りに思う。」という心になるかもしれない。これは、仏陀ではない。人間の妄想が作り上げたただの偉い人だ。

親鸞たち高僧がみた仏は、親切も矜持もない。目標も努力もない。善も悪もない。仏だけで成り立つ実体もなく、真実の道理である他に何もない。仏でいたいから、人を救いたいから、という一方的な仏はない。あなたがあるから、仏がある。救いたいではない。救われるようになっている。

わたしというのは、実のところ、生命があっても、本質的に実体がない。いや、ここにいるではないか。頭もあり、体もあるではないか、と言うなら、それは、頭であり、体であるだけだ。あなたが作ったものでも、あなたが制御しているものでもない。数十年の間だけ、その個体をして自分だとしているだけだ。

仏もまた実体がない。仏像みたいなのが宇宙のどこかで座っている訳ではない。ただし、わたしは仏との縁があり仏の子となる。「釈」を名告る仏弟子である。この世の権威が決めることではない。自分と仏に縁ができた瞬間、それは実体となる。

それは理解でも解釈でもない。行であり日常を通じて縁となる。縁は道理であるがゆえに、努力も資格もいらない。恣意性なき結果でしかない。悟り、往生、成仏、は狙いでもなければ、対価でもない。

其の五

白石と龍樹

江戸時代中期の著名な儒学者である新井白石は、それまでの日本人がほぼ経験していない西洋文明の基盤思想との接触を持つことのできた学者と言える。密航した宣教師シドッチを四度にわたり取り調べる役を通じて、『西洋紀聞』『采覧異言』を著した。

白石の否定が、自然から見た理(ことわり)に調和するのに対し、龍樹の否定は、縁起という空性的洞察へ向かう——その分かれ目は、どこにあるのか……
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江戸時代中期の著名な儒学者である新井白石は、それまでの日本人がほぼ経験していない西洋文明の基盤思想との接触を持つことのできた学者と言える。密航した宣教師シドッチを四度にわたり取り調べる役を通じて、その限られた情報源から、『西洋紀聞』『采覧異言』を著した。一般的には、キリスト教の否定で終わってしまう話だが、実のところ、優劣論で終わる話ではない。

彼がしたことは、ヒューム(David Hume)の『自然宗教をめぐる対話(Dialogues Concerning Natural Religion)』に半世紀以上先立ち、シドッチ一人と独力でこの是々非々の弁別(つまり科学と宗教を腑分けする合理性と、第一原因論法への鋭敏な懐疑)に達したことは、純粋に思想史的事件として刮目に値する。

地球球体説・経緯度・天文知識といった実証的世界知識(『采覧異言』の地理記述)はその合理性ゆえに積極的に受容し、ローマ字の表音的合理性まで見抜きながら、創造論という形而上の主張だけを切り離して斥けた。この形而下と形而上を冷徹に峻別する理性は、感情的な全否定が陥りがちな思考停止とは一線を画す。

白石は、西洋文明の合理性を見抜いた上で、キリスト教の創造論を否定する。

「デウス(ヤハウェ)自体、誰が造ったのか。天地がまだ存在しない時点で彼は生れたのか。デウスが自ら勝手に生れたのなら、天地も勝手に生まれておかしくないではないか。」

「デウス自身が皆を善人につくって、全員をその教えに従わせればよいではないか。それができないで、世界中の人を洪水で絶滅させるとは一体どういう了見なのか。」

これらは、極めて理性的な疑問である。そして、その合理的思索は、一見龍樹の思想にも通じているようにも見える。

「デウスを造ったものは何か。デウスが自生するなら天地も自生してよいはずだ」との反駁は、「もし自在天が万物の作者なら、その自在天を作ったものを問わねば無窮に陥る」という『大智度論』の論説と重なる。これは、仏教の無始(anādi)の世界観(輪廻に始点を認めない立場)である。

そして、「全能かつ善なるデウスがなぜ人類を善人に作らないのか、できぬのに洪水で滅ぼすとは何事か」という指摘は、「自在天が苦の作者でもあるならその慈悲と矛盾する」と、龍樹に帰される論書によりその矛盾が突かれている。

白石の達観は、本物である。この白石の知的達観は、どこまで龍樹と重なり、どこが分かれ目となるのか。

無窮の論点において両者が重なるのは、あくまで他生(創造神)を斥ける一点に尽きる。しかも仏教の無始は無因の自然発生ではなく無始の縁起であり、その意味で一致は表面的でもある。

「自ら勝手に生れる」を否定するのは、『中論』第一観因縁品の四句の通りである。さらに他生(=デウス創造)を否定するのと同じ論理で以って、自生(svata-utpāda)もまた斥ける。つまり、誰かが生むものもなければ、自分で生まれるものもない。

ただし、龍樹は他生・自生の否定で留まらない。創造神の否定という破の側面では共振しつつ、自然へ着地する白石に対して、代替になる実体的なものを立てない。

神と人間の関係(罰を下す、霊魂を教育する、信仰で救済する)に恣意的な一貫性を持たせる点への論駁は、龍樹の自在天破斥にも通じるが、秩序を知的に対比して立てる新たな秩序もまた観念の遊戯に過ぎず、勝義において定義できることではない。

白石の否定が、自然から見た理(ことわり)に調和するのに対し、龍樹の否定は、縁起という空性的洞察へ向かう。

龍樹の無自性空の思想と、白石の現実的な理知的清算の方向性、その違いはどこに現れるのか。実のところ、ここは、仏教徒自身が最も足を滑らせる地点であると言える。

端的な思い違いは、龍樹の否定を「正しい世界観の獲得」として受け取ってしまうことである。つまり解脱論的な否定を、白石型の理論化された定義へとすり替えてしまうことに他ならない。

白石の理性は求心的に働く。創造神という不整合な前提を除去し、理気の自然(りきのしぜん)という理気二元論へ世界を回収し、そこには人為的な意図はなく、認識主体である私はそこに確かな足場を得る。これは理知的であり、一見、仏教は同じことを説いていると思う人も少なくないだろう。白石は見事にその同一軌道にある。

龍樹の否定は、これと逆向きである。四句は、自生・他生・共生・無因生を各々独立に斥ける。従い、「創造神は無い」という命題において、命題止まりに安住することを許さない。

なぜ龍樹は神を破斥しながら、「神は無い」という反対命題を立てないのか。

この鍵は否定の二類型にある。無遮(prasajya, 非定立的否定)と非遮(paryudāsa, 他を含意する定立的否定)において、白石の否定は非遮で、「神を消す→理気の内在秩序が残る」と代替命題を立てる。

一方、龍樹の否定は無遮(プラーサンギカの立場)で、相手の前提の内在矛盾を示すのみで自らは何も立てない。この「破は共有するが立は共有しない」というスタンスは、どちらかはっきりしろと言いたがる現代的基準で捉えにくい点である。ゆえに現代人は、えてして白石のような歯切れの良さを真実としかねない。しかし龍樹を断見(虚無論)と見て仕舞えば、そこで龍樹は消滅する。

空はあらゆる見(dṛṣṭi)の止息であって、新たな一見ではない。『中論』第十三章八において「空を見と執する者は不化(asādhya, 救い難い)」と切って捨てるのはこのためである。『廻諍論』の「我に宗(pratijñā)なし」も同じことを言っている。立つべき足場を何も残さない。これが立つべき足場を確立する白石の方向性とは決定的に違ってくる。

「すがれ」という宗教は、斬り落とされる。しかし、別の何かを立てて斬り落とすのではない。

龍樹は、なぜそこまで否定し尽くすのか。動機が「認識」ではなく「解脱」に置かれているからである。何をどう認識するか、を本質とみていない。

『中論』第十八章五の連鎖に関する考察——「戯論(prapañca)が分別(vikalpa)を生み、分別が業・煩悩を生み、それが輪廻を駆動する」ゆえに苦の根は「誤った世界像」ではなく、「世界像を立てて掴む働きそのもの」にある。

空とは戯論の止息であり、空を握りしめることではなく、むしろ掴む手をほどくことである。『中論』第二十四章十の二諦説にある「言説に依らねば勝義は説けない」として説かれる論理そのものは乗り物であって終着駅ではない。

もっと言えば、解脱とは、乗り物の解釈(空の論理を「理解する」こと)でもなければ、到着駅(涅槃を「到達すべき場所」とすること)の理解でもない。

涅槃は無所得(般若の「以無所得故」)であり、『中論』第二十五章十九で言うように輪廻と別の場所ではない。空もまた空であり(十八・空の「空空」)、解毒の薬すら放置する。涅槃に行かねばならない私などない。乗り手・乗り物・行き先も全て空である。掴める実体も、掴まねばならない私もない境位だからこそ、安住という形を取りようがない。

また「自然」という言葉の取り方も実は同じではない。白石の自然(おのずから然り)は、主体が把捉する合理的内在秩序である。同じ「自然(じねん)」を説いた親鸞の自然法爾は、字は同じでも向きが正反対で、自力のはからいを離れ尽くした地平、本願の働きにただ委ねる「しからしむ」を指す。

前者は計らう主体の完成、後者は計らう主体の解体。同じ字を、知の達成と読むか、知の手放しと読むか。ここで多くの仏教徒が、無意識のうちに白石の「自然」へ踏み込んでしまう。

要するに最大の誤解はこうである。創造神を論破し、実体を見抜き、「仏教は科学的だ」と整合的な無神論的世界像に安らぐとき、その達成感はまさに白石的な知的清算の喜びであって、龍樹の智慧ではない。仏教の方が優れていると感じたその瞬間に、人は龍樹を見失い、白石を手に入れている。

白石は間違い、龍樹は正しいとしてしまえば、これもまた分別になる。龍樹的には、世俗(saṃvṛti)の次元では、球体説も天文も、創造神への懐疑すらも、白石の思考はまるごと有効として肯定できる。分かれるのは勝義(paramārtha)で否定をも実体化しない一点だけである。世俗として現実的に白石は否定されない。その上での勝義の不執である。

最後の分かれ目は、空の正しさを握りしめるその手こそ、空が解き放そうとした当の手であることに気づくかどうかにある。放した手で、新たに何かを握り直すことではない。

其の六

「永遠に今」がつづく

「念佛」の「念」は「今」と「心」に漢字分解できる。いかに自分の「心」が「今」にないことばかりかと思わされる。

人間は「永遠に今」から抜け出せない。常識的に、時間の流れは(過去)→(現在)→(未来)と考えられるが——釈迦はこの天動説的な受け止めをコペルニクス的に転換した……
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「念佛」の「念」は「今」と「心」に漢字分解できる。いかに自分の「心」が「今」にないことばかりかと思わされる。

誰だって「今」は分かる。けれどその「今」自分の心には「過去」があり「未来」も混じっている。脳が過去を「記憶」として、未来を「予測」として認識していて、自分が永遠に「今」しか生きられない、という現実を忘れさせる。

今、昨日を生きられるわけでもなく、今、明日を生きられもしない。昨日、は昨日の今を経験した。明日も、明日の今を生きる自分がいる。人間は「永遠に今」から抜け出せない。

常識的に、時間の流れはこのように考えられる。(過去)ーーー>(現在)ーーー>(未来)。物事の影響とか因果関係という観点で見るなら、過去から現在、現在から未来へ時間は流れているのだ、と捉えられる。

けれど、未来がやって来るとか、過去は去り行くというなら、時間の流れはこうなる。(過去)<ーーー(現在)<ーーー(未来)。実際、「自分の死はやってくる」という現実は、明らかに時間は未来から現在に向かって迫り来るというのは正しい。

時間は一体、どっちの方向に流れているのか。この矛盾は、時間が一方向の同軸で「流れる」という認識からくる。流れる時間というのは、概念であり、実際に自分自身は、「今」にしかいない。

「今」を「時点」を混同するところから、矛盾が生まれる。私は、過去の「時点」を生きていた。それらはずっと繋がっている。そして未来の「時点」も死ぬまで続く。点が続いて線になる。線の上を「時点」が移動している錯覚に陥るが、人間は「今」しか生きていないし、永遠に「今」しか生きられない。

「時点」を過去や未来に投影しても、物理的に今ではない。私の「今」は、時間が一定に流れている上にあるという天動説な受け止めをコペルニクス的な転換をしたのが釈迦である。

釈迦は因果を説いた。縁起により世の中は成り立ち、縁起により今の自分自身が成り立っている。存在の関係性とは、過去と現在、現在と未来の関係ではない。因果は過去の原因と未来の結果でもない。今ある結果の状態は、縁起によってもたらされ、縁起は様々な関係の中で起因する。相互依存性がある。依他起性ともいう。

全てのモノ、コトは、単体で成立し得ない。全てが関係の中で存在たり得る。存在とは意味を持つ主体と言っていい。関係性を以って存在と言える。そしてその関係性は、一つや二つではない。もしかしたら何兆もの関係が同時多発で絡み合っていると言える。それをして、私であり、それをして、今である。

縁起の中で、今をどう捉えるのか。釈迦は、今そのものが主体ではないと説いた。今は関係する(縁の起こった)全てのことから成り立っている真実を説いた。

今を生きよ、という。一月の後に死ぬのが確実だとしてもだ。言うのは簡単だが、これは極めて無理難題である。しかし、究極こうなのだ。

スティーブ・ジョブズは、「今日が人生の最後の日だとして、私は何をする?」と自問し続けた。彼だけではない、多くの偉人も「今、この時」に集中して生きた。

怖れ、苦しみ、不安、それらは、脳が作り上げた未来像から来る。後悔、執着、損失、それらは脳が作り上げた過去像から来る。

釈迦は、善いも悪いも示さない。真実を示した。「今だけ見るのは良くない、将来を考えるのは良い、過去の失敗に学べ」——これらは道徳であり、渡世訓であっても、釈迦の説いた本質からは、まるで違うものである。

真実の世界を、仏の世界という。いのちが充満した世界ともいう。生命はそこから来て、そこに還る。真実は真実でしかない、自分が決める真実などない。

維摩経に説かれていることで、維摩居士が「菩薩の心が美しいなら、菩薩の世界もまた美しい」と言った。舎利弗がそれを聞いて疑問に思う——「ではどうして、仏陀がおわすこの世の中が、こうも汚れているのか。」維摩は、「何を言いますか、この世は十分美しいのに」という。釈迦は微笑みながら、足の先で地を叩いた。その時、舎利弗の如実知見が開き、見事な浄土がひらけた。

今が、黄金の時。真実の眼を通して見たなら、もうここに釈迦の示した世界が展開している。私はそれに気付けていないだけだ。

村野四郎という人が「鹿」という詩を書いている。

鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることができただろう
彼はすんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして

生命の教育者と言われた東井義雄さんは、八鹿小学校の校長時代のガリ版通信「培其根」にこう記している。

いよいよ、私も、明日は、豊岡市民会館で、四十年間の教員生活の卒業証書をもらうことになりました。四十年間、私を育ててくれた大きい教育の森を背に、暮れて行こうとする町の灯を見つめている私です。村野四郎さんは「鹿」に託して、この私のことを歌っているように思われてなりません。そう思われてならない程、私の手に今ある一握りの「時」が、黄金のように輝いています。

「時」も、こんなに光るときがあるんですね。いや、「時」というものは、本来、こういうものなのでしょう。永劫の中の一瞬、劫初以来、一度もなかったまっさらな一瞬、永遠に二度とやってくることのない一瞬。四十年間、「時」というもののこの譬えようもない美しい光を見得ずに来てしまった魯鈍な私であったことが悔やまれますが、それでも、今、それにめぐりあえたことを喜ばねばなりません。私には「時」のこの光に出会うため四十年を要したのです。今夜は四十年かかってめぐりあった「黄金の時」を抱きしめて、いや、その「黄金の時」に抱きしめられて、明日を迎えさせてもらいます。

長いことお世話になりました。私には、次に「人生の卒業」という一大事が待ちかまえていてくれます。若い皆さんのように「あり余る程のどうでもいい余分の時」なんか無いのですから。これからの一日一日こそが、「人生の卒業」という一大事を迎えるための、かけがえのない一日一日なのですから。いよいよ、最後の勉強にいそしまねばなりません。

「余生」、私には、そんな余分のいのちなんかありません。いよいよ私にとって「本番」の時がやってきたのだと思います。

昭和四十七年 東井 義雄

龍樹(ナーガールジュナ)によれば、「時間などない」という。難解な表現をすれば、「時間は存在に依存し、存在は縁起に依存し、ゆえにどちらも実体をもたない」つまり、過去や未来の出来事と結びついた時間そのものが無い。時間と存在は縁起的に相互依存しており、どちらも単独では成り立たない。

『中論』第2章観時品・第1詩領より——
gataṃ na gamyate tāvadagataṃ naiva gamyate / gatāgatavinirmuktaṃ / gamyamānaṃ na gamyate //
すでに去られた「時間のみち」は去られない。未だ去られない「時間のみち」も去られない。現在去られつつある「時間のみち」も去られない。

時間がないのではない。我々が思っている時間は本当の時間ではなく、本当の時間は我々には知ることが出来ないのである。

全ての存在が例外なく体験する「永遠の今」とは、法則的・必然的にそうあるようにあるという真理であり、「法性(ほっしょう)」とか「真如(しんにょ)」などと表現される。自然法爾(じねんほうに)という通り、秩序のもとで「そのようにしかならない」ものなのだ。このように観点を転換すれば、真如は、過去にない、未来にない、そして何と現在にもないという。