承元二年、雪解けにはまだ遠い日本海。一日中吹きすさんでいた風は、今なお海原に幾重にも白い波頭を重ねている。
荒い潮風に遊ばれるように歩を進める男女の姿があった。昨年の春頃より近くの竹之内の草庵に住んでいる親鸞と恵信尼である。
この頃の親鸞は三十半ばの精悍な丈夫、恵信尼は九つほど歳の離れた器量持ちであった。
恵信尼は乱れる髪を片手で押さえながら、少し後ろに付き従う。都の暮らしにはなかった海風にも慣れてきた。
「今日も波が立っておりますね」
風にかき消されぬよう、恵信尼はやや声を張った。粘りを帯びた冷たい潮風が頬を打つ。
高台に差し掛かったところで二人は足を止めた。親鸞は、目を細めて広い海原を眺めていた。しばらくして、独り言のように呟いた。
「打ち寄せる波も、果てのない海も、すべては、一滴の水なのだな」
「あのように、波が浜に向かって、あんなに早く。」
見つけたものを見せたいように、恵信尼は指先を隠した袖を向けた。波は、重なってこちらへ押し寄せてくる。親鸞は答える。
「確かに、早い波が浜にせまっているようだが、海水はあのように動いてはいないよ」
親鸞は、沖に浮かんでいる漁の小舟を指差して言った。
「見てごらん。波間に、小舟が浮かんでいよう。舟を浮かべている海水が浜辺に動いているのなら、舟も波と一緒に浜に持って行かれるものだよ」
「確かに、あの舟は波間に揺れていますが同じところにとどまっておりますね」
恵信尼は、凝視しつつ答えた。舟も海水も同じところにある。それでいて波は浜岸に向かって進んでいる。
「見た目と、実際とは、違うものでございますね」
「人も水と同じ。けれど人は自分を波のように思い込む。本当は波の中にある一滴であり雫にすぎないのだ」
「人は、波のように移り変わるものと、思うておりました」
恵信尼は風にあおられる髪を、両手でようやく束ねた。
「人は海水の一滴、河原のつぶてのようなものだ」
「なんとも、儚いものでございますね」
その声には、一抹の寂しさと諦観のような響きがあった。
「その一滴一滴がなければ波は生まれないが、波の動きは海水の動きではない。あれは力が動いているのだ。」
「その波と一滴の海水こそが、み仏と有情(人間)の関係、ということでございましょうか」
親鸞はしばし沖の海原へ視線を漂わせ、やがてぽつりと言った。
「縁起さ」
その一言は、荒波の音と、風の唸りにかき消されるほどだったが、恵信尼は確かにそう聞いた。
夕日の美しい浜である。斜陽が鈍色の雲間を割って差し込み、波打つ海面に幾筋もの銀の道を作っていた。
「見ていなさい。聖人(法然)の説かれた浄土の教えが、今に大きな波となってゆく」
「みやこでは……おいたましいことでございました」
消え入るような恵信尼の声だった。昨年のことだ。兄弟子たちが拷問の末に、六条河原や近江国で首を落とされた。師・法然も、罪人として都を追われ、親鸞もまた流罪としてこの地に送られた。
仏弟子が、仏弟子を迫害する。その報せを受けたとき、恵信尼は末法という言葉を、生まれて初めて肌で感じる思いがした。
親鸞の声が、少し険しさを帯びた。
「我こそは正しい仏の教えだ、我こそ正義だと言っているそばから、釈尊の残された教えが、音を立てて崩れ落ちてゆく」
「お念仏は……正しい教えなのではないのですか」
「釈尊は、念仏せよとは、一言も仰っていない」
恵信尼は息を呑んだ。
「では……何ゆえに」
「釈尊は、もうこの地上にはおられぬ。ご自身が涅槃に入られてより千五百年ののち、末法の世が来ると仰せられた。今が、その末法なのだ」
言葉が、冷たい風よりも深く恵信尼の中に染み込んでいった。末法とは、仏のいない、正しい教えも伝わらない、地獄にも似た時代ではないのか――そんな恐怖が、直感的に脳裏をよぎる。
「どうなるのでございましょう、この先」
「仏もいない、正しい教えも届かぬ時代を、末法と呼ぶ。しかしな」
親鸞の凛とした眼が、恵信尼を見つめる。
「末法に仏道はない、とは誰も言うておらぬ」
「その仏道が、お念仏なのでございますか」
恵信尼は、正直に言えば、心細さを覚えていた。それでよいのか、とすら思った。
「あやかりのための念仏ではない。自力で念仏したとて、何が変わるわけでもない」
親鸞の声は、静かだが揺るがなかった。
「人間は、生きているうちは、真っ当な人間であらねばならぬ。人の姿をした鬼や畜生に、堕ちてはならぬのだ」
「それはお念仏でなく、人の道徳や心構えでございましょうか」
「仏教は、人生訓でも処世術でもない。我執を助ける仏はおわさぬのだ。」
きっぱりとした答えだった。
「わしは聖人より受け継いだ末法の仏教、浄土の教えに、生きるだけだ。仏になりたいから、念仏にあやかるのではないよ」
親鸞は、荒れる海へと視線を戻した。
「人間、日々忙しい。苦痛から逃れたい、欲しいもの、失いたくないもの、憎いもの――そうした一切から、しばし離れて、心静かに佇まいを正し、背筋を伸ばし、掌を合わせ、念仏する。理屈などない。ただただ、阿弥陀仏が人間のほんとうのいのちをすくわれることになっている。本願に帰したわしには何の計らいもいらぬ。」
「一滴の水にすぎない我が身が、波といううねりに翻弄され、同じ場所で流転しているように、私には思えてきました」
恵信尼は、少し腑に落ちないように答えた。親鸞は、不思議そうに恵信尼の表情を覗き込んだ。
「波と関わりのない一滴はないよ」
恵信尼は、戸惑っている様子だった。
「そうなのでしたら、お念仏はどういう意味を持つのでございましょう」
「意味を持たせる念仏など、ないのだ。まさに義なきこと。人間は、勝手に意味を持たせたがるが、それを、牽強付会というのだ」
恵信尼にとって、末法も、一滴も、波も、そして親鸞が語る浄土の教えも、まるで一つに結びつかなかった。荒波の音だけが、絶え間なく鼓膜を打つ。恵信尼は、親鸞の横顔をそっと窺った。
この人には、一体何が見えているのだろう。
親鸞には、釈迦以来の教えが、途切れることなく、確かに一本の糸のように繋がっているように見えていた。師・法然が、ある日突然、念仏を言い出したわけではない。そこには、厳然とした系譜があった。
この日本にも、遠い昔の中国にも、さらに遥かな天竺にも、仏道を歩んだ幾人もの仏弟子たちが、教えを受け取り、繋いできた。彼らは、請け売りでも、思い込みでもなく、言語と文化圏を超えて真実の教えを受け取り、次へと繋いだ。
念仏は易行道だから効率がいいとかいう話ではない。在家のままで手軽にできるからでもない。末法の世という荒野にあっては、必然として、称名念仏へと行き着く。
愚禿と名乗るこの男には、仏の教えで繋がれてきた時代人のうねりが波となるのを達観する、揺るぎない眼差しがあった。
阿弥陀の浄土を説く教えの波は、必ず末法の世に念仏の声を伴いやってくる。親鸞が生きているうちはないかもしれない。だが、それでよい。いつか自分と同じように、この教えを継ぐ者が必ず現れる。彼らもまた、一滴一滴の水だが、やがて大きな波となってゆくだろう。
その波の向かう先は、一滴の水にはわからない。だが、そのうねりは、より大いなるはたらきからきている。釈迦が見た諸仏の世界、仏陀ゆえに伝え得た阿弥陀如来の本願、時代と国を超えて伝えた仏弟子たち。時空を超えて、そして人を越えて、確かに繋がっている力がある。
誰のためでもない、仏のためでもない。ただ、生死を超えて本当のいのちをすくう阿弥陀如来に帰命する。それが念仏という声になる。目的も手段も、そこには必要がない。
潮風が強さを増し、肌を刺すように冷たくなってきた。太陽は、今まさに水平線へと吸い込まれようとしている。赤く染まった光が海面を長く這い、親鸞の顔を照らした。
「西の彼方から、一条の光が、何にも礙げられることなく、わしのもとへ届いているよ」
親鸞は、少年のような素朴な笑みで恵信尼を見た。
「さようでございますね。私にも同じように、届いております」
恵信尼は、その微笑みに和んだ表情で、草庵の方へ促すように四指を揃えて親鸞を先に歩かせた。
「さ、帰って、ゆうげといたしましょう」
何の特別もない、ありきたりなひとときだった。だが、時が経つほどに、それはかけがえのない、輝かしい時間として、恵信尼の胸に残ってゆく。
大悲というものに気づくのは、いつも、はるかな歳月が過ぎ去ってからである。
それから五十五年の後
弘長二年、冬。その報せは、都からの一通の文となって、雪深い越後の里に届いた。娘・覚信尼の筆による、父・親鸞入滅の知らせであった。九十年の生涯を、京の片隅で静かに閉じたという。
恵信尼は、すでに八十を数える老女となっていた。震える指で文を幾度も読み返し、やがてそれを静かに文箱へ収めると、何も言わず、綿入れを羽織って表へ出た。
供の者が止めるのも聞かず、恵信尼は杖を頼りに、雪の残る道を、居多ヶ浜のあの高台へと向かった。あの日と同じように。
長い歳月が過ぎていた。竹之内の草庵も、竹ヶ前の庵も、とうに人手に渡り、面影を残すものは少ない。だが渚に立てば、波の音だけは、あの日と少しも変わらなかった。
日はすでに西へ傾き、鈍色の雲の切れ間から、朱に染まった光が漏れ出していた。老いた目には、もはや水平線の輪郭さえおぼろげだったが、波間を抜けて差し込むあの一条の光の帯が、はっきりと見えた。
「殿……」弱々しいかすれ声だが、やさしく話しかけるように言った。風の音だけが聞こえる。
けれど、風の音の向こうから、あの日の声が確かに聞こえた気がした。
「見ていなさい。聖人の説かれた浄土の教えが、今に大きな波となってゆく」
思えば、あの人の言葉どおりになった。関東の地に、数えきれぬ同朋が生まれ、称名の声は、もはや一人の男の呟きではなくなっていた。
親鸞という一滴は、いつしか大きなうねりとなり、恵信尼自身の与り知らぬところにまで、広がり続けている。そして今、その一滴は、波の中の流転を突き抜け、あの光の中へ還っていったのだ。
恵信尼は、夕焼けに染まる海に向かって、深く手を合わせた。
「西の彼方から、一条の光が……」少年の目で見つめてくれたあの人の声が、時を超えて聞こえた。
「……わたしもまた還ってゆきますね」
二人だけのあの時の夫が、横にいると思っているようだった。若い二人の、あのひとときが黄金の時間のように感じた。
やがて陽は沈みきり、居多ヶ浜は藍色の闇に包まれた。波の音だけが、響き続ける。
一滴一滴の水は、波にもなり、雨にもなる。波も、雨も、雲も、一滴一滴の水がなければその形にはなりえない。よりおおきな力のはたらきと縁起でそうなってゆく。
今日も太陽が一日のときと共に天空を移り、西に還って行く、はるかな海面に一条の光の帯を残して。